関係者インタビュー第2弾!移住連代表理事 鳥井一平さん!

みなさん、こんにちは。学生チームです!関係者インタビュー第2弾お待たせいたしました!

 

今回インタビューにご協力いただいたのはNPO法人移住者と連帯する全国ネットワーク(以下、移住連)の代表理事を務める鳥井一平さんです。

講演会やシンポジウム、また国会での参考人意見陳述など、最前線に立って活動しており、テレビなどのメディアで見かけた方もいらっしゃるのではないでしょうか。そんな鳥井さんのバックグラウウンドに迫りながら移住連や全国フォーラムについてお聞きしていこうと思います。

 

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NPO法人 移住者と連帯する全国ネットワーク 代表理事 鳥井一平さん

 

幼少期編

ーまず、移住者と関わるようになったのはいつ頃からですか?

「生まれた時ですかね(笑)。大阪の阿倍野区で生まれて豊中市で長く育ったんですよ。私の父親は住民票はあったんですが、「本籍がない」人で、そういったところにあまりこだわりを持たない人だったから。それもあってか、生まれた時から周りには中国人や朝鮮人の人が多かったかな。一歳の誕生日なんかには、中国式の誕生日の祝い方で、巻物に華僑の人たちみんな名前を全部ばーっと書いてね、この子をみんなで守っていきましょうっていうやり方があったり、食事や遊びも中国式のものに多く触れていたかな。」

 

 

学生時代編

ー学生時代は元々どんなことに興味があったんですか?

「やっぱり社会問題には興味があったかな。豊中市っていう環境がとても良かったね。今は国際交流協会も活発だけど、当時から人権教育、平和教育にすごく熱心だった。小学校で児童会、中学校で生徒会みたいな感じで自主的な運営なんだよ。選挙があってさ。で、3分の2ルールだとか4分の3ルールだとか民主主義のルールみたいなものをどんどん教えこまれていくわけ。模擬議会で厳正に選挙なんかもやるし、議会ルールもきっちり教え込まれたと思いますよ。」

 

 

ー僕の学校も一応選挙はありましたけど、形だけになっていて全然成り立っていませんでした(笑)

「ほかにも、教科書だけじゃどうしようもないって言って、中学校の時は、歴史の先生なんか教科書を一切使ってなくて先生のノートで授業するんだよ。そういう時代だから、そもそも君が代なんて歌ったことないの。」

 

 

ー強制されなかったってことですか?

「小学校、中学校でも歌った覚えないね。」

 

 

ー今だとあまり考えられないですね。

「そうだねぇ。先生のストライキとかもしょっちゅうあったし。

高校に入って一学期目は授業をしなかった。入学式もなかった(笑)。」

 

 

ー入学式まで。。。(一同唖然)

「学校が始まったら始まったで、いきなり職員室の前で野球部のキャプテンとアメリカンフットボール部のキャプテンがハンストをやってんだよ、座り込み(笑)。」

 

 

ーそれは何に対してですか?

「『本当の教育を求める!』って能力別クラスへの反対が目的だったみたい。それで、そこから一学期の間、授業は一回もなし。朝からクラス討論。。それで結局能力別クラスが廃止されて。そしたらもうみんな「闘えば勝てる」ってなるわけ。達成感も大きいし団結も強まったし、今でも高校の同級生は私がこういうことをやってることにも理解があるし、『鳥井だけは昔から変わんねぇな』みたいになるわけよ。」

 

二年生から単位制に変わったことで、必修以外の授業は選択になって、鳥井さんは体育やサルトルの授業を履修していたとのこと。高校三年の半ばからは東京で働いたりもしていたみたいです。

 

 

ー大学時代はどんな学生だったんですか?

「大学は二部の大学に通ってたから昼は仕事して、夜は大学に行ってみたいな感じ。今でも記憶に残ってるのは一番最初の新入生歓迎の映画会で、観ていたら自治会の勧誘が来たことあったんだよね。(そのころ)フランス語の授業をとってたんだけど、担当の教員が『君たち何か勘違いしているよ』って言い出して(笑)。(履修者が多かったため)『私の授業は単位取りにくいよ。二部の学生だったら居眠りしちゃって大変だから他の授業とったほうがいいんじゃない?』って。」

 

「その時にこれって差別じゃない?と思って自治会の人に相談に行ったんだよね。そしたらみんな同意してくれて、その教官の部屋に乗り込んで『二部の学生を差別してるんじゃないか』って追及するんだよ(笑)。そしたらその教員も『申し訳ありませんでした』って謝るんだよね。他にも夜は体育の授業が日没終了だったんだけど、それはおかしいから夜間照明を作るよう大学側に掛け合ったり、部落差別の問題とか朝鮮人・韓国人に対する差別に取り組んでたね。」

 

「それから生協もあったから自治会と一緒に公害問題、差別問題、環境問題いろんなことに取り組んだね。今の、パルシステムとか、それから、グリーンコープとか、こういうとこはみんな昔の活動仲間だから。一緒にデモしたりもした仲間だしね。」

 

学生時代から様々な方面にアクティブだった鳥井さん。今の決断力や行動力は学生時代から積み上げてきたものの結晶ですね。

 

 

外国人労働者と向き合う

ーそうした環境でどのような経緯で現在にいたったのでしょうか?

「まあ、最初は全統一労働組合で、1990年ぐらいから外国人労働者の労働問題に出会った。当時は東京労働安全衛生センターの事務局も団体の発足(1991年)からやっていて、そこで『外国人労災白書』っていうのがつくられて、記者会見を見ていた外国人労働者から相談がたくさんきたんですよ。

例えば、1991年に千葉県野田市の金属プレス工場で外国人が指を3本落とす事故があって、労災を手続きするためにまずは主治医の話を聞こうと千葉県野田市の小張総合病院っていうところに行ったんだけど、ロビーに包帯姿の外国人がいっぱいいて。」

 

 

ー大勢の包帯姿の外国人ですか。。。

「そう。これは大変なことが起きてるなとバッて実感したわけね。

で、彼のそのケースはお医者さんと話をして、会社に乗り込んでいって。これは労災じゃないか、ということで労災の手続きをちゃんとしなさいと。その件がその病院のロビーでバッと噂が広まったわけですよね。」

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ーそこで外国人労働者の人たちとの関わりが拡大していったんですね。

「そうそう。オーバーステイ在留資格を持っていない非正規滞在)の人でもうまくいったぞって、話が広まっていって、次々と相談が来るようになったわけ。そこからもっと組織的かつ大々的に行っていこうと、『外国人労働者分会(FWBZ)』というものがスタートしたんです。それが、パキスタンバングラデシュ、イランからの3カ国、20人でした。」

 

「1993年に、そこからさらに拡大していこうということで春闘(労働条件の改善を求めて毎年春の労働組合の闘い)に合わせた取り組みをすることにしたんだよね。『生活と権利のための外国人労働者一日行動』っていうのをその年の3月8日にやろうということで、準備を始めるわけですよ。この頃からメディアの取材も増え始めたんだよ。」

もともと東京総行動っていうのをずっとやってるんだけど、東京の労働組合は特に争議があると、ダーってみんなでいろんな会社や背景資本に押しかけていくっていうことをやっていたんですよ。それが年4回ぐらいあるんだけど、その外国人労働者版をみんなでやろうじゃないかということになって。それで3月8日に動員をかけたら、オーバーステイの人が東京の八重洲国労会館に150人以上集まったわけですよ。」

 

「朝からみんなマイクロバス乗って、いろんな企業に要請する。そのあと東京都に要望とか労働省(現、厚生労働省)との交渉、それから裁判所への申し入れ、東京地裁

朝から1日やってたのがテレビで全部報道されて、夜のニュース、6時、7時、9時、全局でそのニュースが流れたわけね。すごくセンセーショナルな話題になって、こんなに外国人労働者がいるのかと大きな話題になったわけよ。それが毎年、今まで続いているわけね。省庁交渉(年二回、移民・外国人労働者に関する問題について中央省庁と市民社会間で交渉する場。)てのは、そこから始まったの。それをいまでは移住連が窓口になってずっとやっている。初めはさっき言ったように労働問題についてメインでやっていたけど、家族のことや日常生活のこと、税金の問題と、徐々にその幅を広げていって、1997年から移住連の活動の柱の一つとして入れたんだよね。」

 

 

ー省庁交渉にはそんな背景があったんですね。

「そうですね。実際には、1993年外国人春闘までのところでいうと、もっと前からNGOの人たちが取り組んでいるんだよ。でも団体交渉という形にはならなかった。つまり交渉へ行っても向こう(企業)が応じてくれればやるという形でね。だから、労働組合としての交渉をすることで法的義務を作る。個人で企業に交渉に行った場合は、企業側はそれを拒むことができるんだけど、労働組合を通すと(労働組合法の関係で)それを拒むことができなくなるわけ。今までのNGOの人たちの土台があればこそなんだけれども、労働組合がぐっと前に出たわけだよ。で、オーバーステイの労働者も顔出してやれると、自分たちが前に立って。それまでは支援の人たちに助けてもらう立場だったんだけど、自分たち自身がやるというパターンに変えていったわけだよね。これが、非常に大きな原動力になったと思いますよ。」

 

 

ーなるほど。自分たちで自発的にやるように変わったんですね。

「支援は熱心にやってる人がいっぱいいたんだけど、どうしても当事者が前に見えてこなかった。そこで私らがどどどーっていったもんだから。しかもその頃のスタッフだったイスラム系の人たちが元気でさ。在留資格もないのに警察と取っ組み合いした人もいたからね。日立本社の要請では、日立本社のシャッターを押し上げて中に突入して、警備員とオーバーステイの労働者でやりあってるんだから(笑)。警察署に直接要請した時もあった。そういうのをずっと色々やってたわけ。そういうようなエネルギーっていうのがさ、移住連を押し上げてきたのかなって思うんですよ。で、96年に関東フォーラム(現、全国フォーラム)があって97年に移住連がスタート。」

 

 

ー壮絶ですね。。。フォーラムのプレイベントにもなっている「マーチ・イン・マーチ」(2019年3月3日開催)は外国人春闘が変化したものですよね?」

「そうそう。ちょっとおしゃれな名前になっただけです(笑)。」

 

 

ーで、それが毎年春に行われると。

「うん、3月。1回目が1993年の3月8日です。翌年が3月14日だったかな。」

 

 

ーなるほど。ありがとうございます。

 

 

 

年も例年通り行われた「マーチインマーチ」。鳥井さんが語る当時の様子とは違い、今では各国の踊りや歌などを披露する集会があり、その後、権利を求めてデモ行進をします。

 

今年はあいにくの雨でしたが大盛況のうちにイベントを終えました。

 

これまで、鳥井さんの半生を語っていただきました。語りの中には今では考えられないような壮絶なものが多く、学生チーム一同鳥井さんの語りに聞き入ってしまいました。

鳥井さんをはじめ支援者の方々が先陣を切って外国人を含む多くの労働者のために立ち上がり、彼/彼女らと一緒になって権利を主張してきたからこそ今があることを忘れてはいけない。そう強く思いました。

 

しかし、今もなお劣悪な労働環境に苦しむ外国人労働者の方は多くいます。彼/彼女らのために何ができるのか。それは「声を上げ続けていく」ことだと今回改めて思いました。

 

私たち学生チームも声を上げ続けます。

 

 

 

後編ではフォーラムについてお聞きします!こちらもお楽しみに!

 

 

後編へ続く

 

 

取材:松永圭造ウィリアム、 Rin

撮影:Rin

編集:こーだい、松永圭造ウィリアム

 

 

【Info】

・全国フォーラム東京2019 HP

tokyoforum2019.jimdofree.com

・参加申し込み(締め切り迫る!)

www.0553.jp

・学生チーム Twitterアカウント

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