移住女性に寄り添う 移住連事務局長/カラカサン共同代表 山岸素子さん!関係者インタビュー第3弾!前編!

こんにちは。学生チームです!

今回で第3弾となった関係者インタビュー。フォーラム当日までもう1ヶ月を切りましたね。フォーラムに携わるすべての人々が当日に向けて最後の準備で大忙し。

私たち学生チームも日々編集作業に追われています(笑)

 

それでも残りの3週間、最後まで突っ走ります!

 

 

さて、今回インタビューに応じていただいたのは、、、

 

 

 

 

 

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移住連 事務局長/カラカサン共同代表 山岸素子さん

 

移住者と連帯する全国ネットワーク事務局長、カラカサン・移住女性のためのエンパワメントセンター共同代表である山岸素子さんです!

優しい雰囲気をまとい、緊張する私たち学生チームに分かりやすいよう言葉を選んで説明してくれました。

今回は、そんな山岸さんが現在の支援現場に携われるまでの半生に迫ります。

 

 

 

始まりは異文化に深く触れた学生時代

 

ー異文化に関心を寄せるようになったきっかけは何だったのでしょうか?

「私自身は親の仕事の都合で幼い頃から転校が多かったんですが、当時自分の近くには、今のように外国ルーツの人が多くなかったというか、目に見えて近くに認識できていませんでした。でも中学生のころ、アフリカ難民の飢餓が大きな社会問題になっ て日本でもよく報道されていたんです。そのとき、画面に映し出されたアフリカの難民キャンプの子供たちの姿に衝撃を受けたんですよ。骨と皮がくっついていて、肉が無くて、お腹だけが膨れてるっていう状態。その姿を見たときに、『こういうことがあっていいんだろうか』って。自分は日本に住んでて、絶対に食べ物が食べられない ことは無かったし、ただ生まれたところが違うだけで、なんでこんなことが起こるのかってすごく疑問で。それで、高校に入ってからも難民問題の本は結構読んでいました。そこから、大学では開発経済をやりたいと思って経済学部に行ったんです。」

 

 

ー最初に移民や外国にルーツを持つ人と関わりを持たれたのはいつでしたか?

「やはり大学ですね。世界が変わったような感じがしました。当時アジアとか『第三世界』って呼ばれていて、そういう国のことを色々とやりたいと思い、学内では『第三世界ショップ』っていうのをサークルで作りました。当時はフェアトレードという考え方も出てきたばかりだったんですが、それをNGOと連携しながら学内で広める活動を始め たんですよ。結局、自分が今までいた世界があまりにも狭かったんだなと。違う世界の多様な人々の暮らし方に気が付いたのが大学時代なんです。だから、日本に来ている移民の人たちに出会うっていうよりも、大学時代は外(海外)に出ていろんな人に会ったんです。」

 

ー国外に出て、具体的にどのような体験をされたんですか?

「大学1年の時には、ピースボートに乗ってベトナムとかカンボジアに行ったりしてい ました。2年の時にはフィリピンに1か月行ったんです。そしたらそこで「あなたどうして学生なのにこんなところまで来れるの?」と言われて。当時の日本の学生は割と旅行もできたんだけど、フィリピンの田舎の人はずっとそこに暮らしててマニラにも行くことがあるかないかという具合で。学生のうちに違う国に来れるなんて考えられないみたいなリアクションをされましたね。」

 

ーなるほど。肌身で違いを感じたんですね。では、「第三世界」とかとはまた違うんで すけれども、今、働くために日本に来る人がかなり増えたじゃないですか。恐らく山岸さんが学生だった頃と比べたらものすごい変化だと思うのですが、そういうのが始まったときの衝撃などはありましたか?

「うん、そうですね。でも、実は私が大学に入って来た時はちょうど日本にもニューカマーの外国人がたくさん来るようになっていたんです。バブル経済の中、アジアから観光ビザで多くの人が来て、その人たちがいわゆるオーバーステイになってもずっと働き続けていだ。だからなんかこう、街中にとにかく人(外国人)が増えてきた。自分は外にも出てたんだけど、実は日本国内にも動きがあった時代でした。」

 

就職―多文化共生を模索する道へ

 

「そういったイベントに大学3年の時にどっぷり浸かって、そのNGOがやっていた『自由学校』っていう社会教育の所にアルバイトで入るようになりました。大学を出てすぐ に、結局そのままそこに就職したんです。」

 

ー周りの人達、驚きませんでした?

「もちろん親とかには反対されましたね。やっぱり親だったら会社員とか安定した職業について欲しいってなるでしょ?でも友人たちは私のことを知ってたので至極当然といった感じでした(笑)」

 

ーずっとそういう活動に関わっていたんですよね。

「そうそうそう(笑)。まぁそういう訳でNGOに就職しました。そこはアジアとか『第三世界』との関係の中で、日本社会を新しく作る教育とか、様々なプログラムをやってたんです。ちょうど私が入った頃は、外国の人たちもたくさん日本に来ていたので、NGOとしてもそのような現状に一番関心を持っていて、新たなプロジェクトを始めたところだったんです。」

 

「80年代後半から90年代始めの国内には、アジアからの労働者とか、人身売買の被害者女性も沢山いたので、カトリック教会とかその他の市民団体、労働組合とかがそういった問題に対応する団体をどんどん立ち上げていたんです。当時は30万人ものオーバーステイの人がいる時代だったから、東京でも毎週日曜日に代々木公園でイランの人たちが1000人、2000人の規模でお祭りみたいに売り物や出し物をしていて、そういうコミュニティがなんというか、許容されていたりもしていてね。その中での就職だったんです。」

 

ーそのような社会変化の中で、日本にいる移住者(の抱える問題)に関心をもっていったんですか?

「そうそう。もっと現場に関わりたいとも思って転職もして、カトリック教会だとか労働系のところでも働きました。その後、自分たちで作った団体がカラカサンです。」

 

女性であり「移民」。見え辛い問題と向き合っていく

 

ーカラカサンって、神奈川県に住んでる外国人女性がメインですよね。フィリピン人女性のイメージがあるのですが。

「そうですね。色々なんですけど、フィリピンの人は多いですね。限定してる訳ではないんですが、スタッフのメンバーにフィリピンの人が多いので、口コミとかもあって自然とフィリピンの女性やフィリピンルーツの子が多いですね。」

 

ーフィリピン女性っていうのはやっぱり80~90年代だと興行ビザで来られた方が多いんですか?

「そうそう。それでこっちで結婚して子供が生まれて。ただ、結婚関係が破綻している場合も多くて、母子家庭で子どもを育てながら定住している方も結構います。」

 

ーカラカサンを立ち上げるに当たって、その焦点を女性とその子供に向けようと思った のはなぜですか?

「1990年代に国際結婚がすごく増えて、とにかく(国際)結婚ブームみたいになってたんですよ。それで90年代後半には、DVとか離婚の問題がメインの課題になってしまって。創立時のメンバーに女性が多かったっていうのも大きいですね。あとは、自分たちで一から団体を作るとなると、全てのことには勿論対応出来ないじゃないですか。 そういう点も踏まえて、特に取り組みたい問題に焦点を当てた団体を作ったんです。 自分の中でも女性特有の問題に関心があったので、フェミニストカウンセリングを学んだりもしました。」

 

ージェンダーによって生じてくる問題と「外国人」であることに関する問題が重なって、 (国際)結婚ブームの熱も冷めてきて、その後見えてきた傷のようなものを見ていこうみたいな感じだったんですか?

「そうですね。90年代はとにかく、どんどん国際結婚の数が増えていったんですけど、 結婚したもののやっぱり相互理解し合うって感じではなかったんでしょうね。例えば、もともとフィリピン女性に対する偏見が夫側にあるとか、そういうのも(当時は)すごかったんですよ。そこからDVも高い頻度で起きていて。」

 

ー家庭の中の問題って見えにくいですよね

「そう、見えにくさ故に外から言うのも難しくて。というのも、例えばフィリピンの方も、日本からフィリピンに仕送りしてたりしてね。親兄弟、あとは独身の時に生まれた子どもなど、扶養しなきゃいけない対象を(フィリピンに)残して日本に来ている場合が多かったんです。そうすると『何とかして日本で働かなきゃ』っていうのがあるので、どんな扱いを受けても、我慢しないといけないって思う人が多かったんですよ。だから、 日本人の夫に酷い扱いを受けて、かなりのとこまで我慢して、それからもう本当に耐えられない状態になってから逃げ出してくるっていうこともありました。」

 

ー壮絶ですね...。最近だと、結婚だけではなく、家事労働職に就かれているフィリピン

の方が多いじゃないですか。そういう方々もカラカサンにもいらっしゃいらっしゃい

ますか? 

「家事労働者の方たちは確かに今新しい形で入ってきているんですけど、数自体はまだすごく少ないんです。例えば、国際結婚の人たちは毎年何万とかいう件数であったりするけれど、家事労働の人たちは3年前とかに始まって、年間何百人とか。それに、何年かで「帰る」労働者なので、もちろん自分で稼いだお金を家族のために使っているわけなんだけど結婚女性とはまた違う状況でね。ただ、現在労働者として入ってきている人の問題は女性の中でも大きくなっているんですよ。例の技能実習生の問題も半分は確実に女性でね。実際、セクハラとか、女性だからこそ、さらに大変になっている状況はあります。」

 

ー最初にアクションを起こそうってなった時に、どういった形で始められたんですか?

「まずは相談対応ですね。色々な問題を抱えている人たちの相談を電話で受けられるようにする。例えば、DVを受けている人には日本の中にどのような支援策があるのか情報提供をしたり。最終的には本人たちが決めていくんですけど、話しをしてエンパワメントをして、本人たちが自己決定できるようにとすすめていくのが相談活動です。その後、被害から逃れてシェルターに入り、母子ともに日本に定着できるような福祉的支援が得られたとしても、精神的に受けてる傷や地域内での孤立など、問題が沢山あります。なのでヒーリングプログラムとか、自分たちの権利などといった知識を学ぶようなセミナーやワークショップなどもやりました。」

 

「一方で外国にルーツを持って生まれて、暴力の被害を受けてきた(子どもの)場合、自分の自尊心が傷ついてアイデンティティが揺らいでいる子が多いですから、子どもに対しても彼らを支えるプログラムもやりました。あとはね、これだけ酷いことが起こっているのに、外国人だからという理由でDV法案の救済対象になっていないとか。やっぱり日本の法制度が不十分なこともよく分かるので、それは移住連のネットワーク活動に参加して、それこそ移住連がやっているような国内法へのロビーイング活動とか、国会議員に会って DV被害者が当事者としてア ピールするとか、移住連がやっている集会で女性たちが当事者としてアピールするという取り組みを結構やっていたんですよ。」

 

 

 

 

 

後編に続く。

 

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取材:林慶松永圭造ウィリアム小泉秋乃

文:柴崎パメラ

編集:林慶

写真:小泉秋乃

 

 

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